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高部宿

高部宿は、現在でも木造三階建ての建造物、見世蔵、酒蔵、郵便局など明治、大正、昭和の雰囲気を残す街並み空間が存在します。ここは、江戸時代に建てられた古い土蔵が続く水戸藩時代の宿場町でした。水戸藩は和紙の産地であり、特にこの地域では良質な和紙の産地として栄え5軒の紙問屋が集まっていたようです。現在でも木造三階建てが2棟残っていることは珍しいですね。

岡山邸

高部宿でも一際目立つ建物が岡山家の喜雨亭です。この岡山家は、名酒「花の友」の造り酒屋を営んでおりました。その主人が、明治20年(1887年)頃、水戸偕楽園の好文亭をモデルにして築造したのが喜雨亭です。登録文化財に指定されています。

三階建ての楼閣で、四季おりおりの山の景色を眺めながら詩を詠んだり宴が開かれることもあったようです。小部屋の窓には明治時代に流行ったモダンな色ガラスがはめ込まれています。「喜雨亭」は中国の詩人である杜甫の「春夜喜雨」(しゅんや雨を喜ぶ)という詩から名づけたと書かれているようです。当時ここら辺には、芸術好きな方が多かったみたいですね。

岡山さんによると、先祖は武士で、明治維新の頃、県内で天狗諸生の乱があって、諸生派だったそうです。結局、諸生派が負けてしまって、その後は賊軍だったため、一時はここにいられなかったようで、留守にしていたとのことです。その後、明治になってから、戻ってきて復興して今に至っているそうです。

また、「養浩園」という庭園も偕楽園をモデルに喜雨亭と同時に造られました。約3,000㎡の園内には池、浮島、橋、あずま屋があり、つつじ、アジサイ、サルスベリ等の植物が鑑賞できます。岡山家が酒造りをやめてから、手入れも行き届いていませんでしたが、森と地域の調和を考える会で庭園をきれいに整備しました。豊かな自然に囲まれた閑静な庭園は、心が落ち着きます。

大森家

高部宿は高部のメインストリートであったため、昔は様々な店が立ち並んでいました。その一つが、高部自動車です。「茨城交通株式会社30周年史」によれば、1912年に大森家の大森大次郎さんが茨城県で最初のバス営業を開始したそうです。その後、1924年(大正13年)に高部自動車合資会社を設立しました。

また、弘化元年(1844年)に建築された大森家の旧屋敷の柱や梁に刀の傷跡が残っています。大森家は天狗派、水戸藩から苗字帯刀が許され「山横目」の職についていました。刀の傷跡は、山の管理や紙を扱う中で一般農民たちが日頃の思いを晴らすために天狗諸生の騒ぎを利用し、暴れたという説があるそうです。激動の時代の傷跡が残っているなんて、夢みたいな話ですよね。

 

 

※山横目(やまよこめ)-藩の山林の監理。名村の庄屋等の人選、訴訟、警察、その他内密の公用に従         事する権限をもつ役職。

国松家と高部郵便局

国松家は、明治10年から酒屋を営んでおり、たいへん栄えていたようです。今から20年ほど前に酒造りをやめたといわれています。酒屋の隣には立派なお宅があり、改築は所々されているようですが、200年前に建てられたものです。土台は栗の木、柱は松の木と適材適所に様々な木が使われています。この煙突は、米などを蒸かした煙が家の中に入ってくるのを防ぐために高くされたようです。

国松さんのお話によると、お嫁に来たのは昭和38年だったようで、その当時も酒屋を営んでおり、職人さんの身の回りの世話やご飯の支度だったりと、とても大変だったようです。家族や職人、女中さんを含めて20人程が家に暮らしていたとのことです。

当時では普通だったのかもしれませんが、今から考えてみると20人が暮らしていたのはすごいですよね。建物一つ一つにその頃の思い出がしみ込んでいるように感じます。

国松家の、この変わった色の建物も特徴的で、目を引きますよね。こちらは、旧高部郵便局です。前述の大森家から明治41年(1907年)に移庁したものです。その後、明治42年(1908年)に国松権右衛門さんが局長に就任したそうです。受付も外に付いており、当時の郵便局はこのような洋風の建物だったことに驚きました。

平塚家

こちらは、平塚家の見世蔵で、商家建築の一種、店舗兼住宅を目的(江戸時代以降流行った住宅建築様式)としたものです。

平塚家は大地主で、屋号は「米屋」上物の呉服屋でした。よろずや(年貢米、みそ、しょうゆ等の専売品や衣服)で金目のものは蔵の中に納めていたようです。蔵と住宅がつながっているのは見たことがありません。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

平塚さんの話によると、左側の写真の建物は、馬小屋だったとのことです。そして、右側の写真の洋風建築と和風建築がつながってるような建物は、昭和初期に造られたもので、当時でも独特な造りだったようです。

 

 

 

 

 

 

とても立派な蔵や屋敷からは、高部宿で平塚家が栄えていたことが分かります。 

間宮家

間宮家は、明治35年(1901年)に建設された、伝統的な農家風2階建ての和風棟と東側に接続する3階建て洋館からなる木造和洋折衷住宅です。文化財に指定されています。洋館1階は当時、馬頭銀行として使われており、3階は漆喰塗り、その他は下見板張り、飾りのある窓はたて空きです。

洋館には、ビリヤードやダンスをした部屋もあり、当時銀行だった1階にはカウンターや金庫も現存するようです。現代の家が立ち並ぶ中、ぽつんとそこだけが昔のままであることが、なんだか哀愁が漂っている感じがします。

この高部宿は、高度経済成長時に開発が入らなかったおかげで、ここまで保存状態が良く残っているようです。先ほども述べたように、そこ一帯だけが、時代から取り残されているような郷愁が感じられるのが魅力だと思います。

森と地域の調和を考える会では「地域の魅力探索ツアー」にて、高部宿を廻ることができます。ツアーが決まり次第、イベント情報に随時アップしますので見てみてください!

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