高部舘
高部舘は、鎌倉時代末期に佐竹氏七代義胤(よしたね)の五男景義(かげよし)が築城した、戦国末期の戦闘城郭です。そして、標高290mほどの山城です。
城のある場所は、馬頭烏山方面から佐竹氏の本拠、常陸太田方面へのメインストリートであり、佐竹氏はこの城を重視していたようです。高部付近が緒川の谷が狭まるため、この地を防衛のための前線拠点にしたようです。現在も子孫がこの地に住んでいます。
この図は、高部舘の構成図です。北・東側は急な斜面、南・西側は堀切(ほりきり)、竪堀(たてぼり)の防御施設を多用しています。平坦部である曲輪(くるわ)は南北に八つほど連ります。主郭(本丸)は80m✖80mの広さを持ちます。
高部舘に詳しい河西さんによると、築城から数代にわたって高部氏が館を治めていて、その後佐竹氏最大の内紛、山入の乱(1408~1504年)が起こると、高部舘は山入氏に落とされその所有となったようです。そして、佐竹氏が勢力を盛り返し、追い詰められた山入氏義は高部舘に入るが1504年に佐竹氏に討たれたとのことです。その後佐竹・東氏の代官が入って治めていましたが、徳川家康によって佐竹氏は秋田に移封され、館は廃止されたそうです。
高部舘は、平成25年から森と地域の調和を考える会で、毎年下草刈りを行い、きれいに整備しています。また、茨城大学の高橋教授が調査に入り、高部舘が学術的に貴重なものだということが分かりました。
この図は、森と地域の調和を考える会の河西さんが描いたイメージ図です。地域の方が、地域の魅力にとても情熱を注いでいるのが伝わります。その当時の歴史の場面に遭遇した感覚になれそうです。
森と地域の調和を考える会では「歴史探索ツアー」や「地域の魅力探索ツアー」にて、高部舘に上り、説明を受けることができます。ツアーが決まり次第、イベント情報に随時アップしますので見てみてください!